竜崎戒珠(1763~1849)は、横須賀市池田町出身の江戸時代後期の地方文化人の一人です。
戒珠は、文化十四年(1817)に三浦半島全域の地誌としてはもっとも古い、加藤山寿が著した『三浦古尋録』を増補しています。
この戒珠の天保十二年(1841)の著作に『三浦諸仏寺院回詣記』があります。
これによれば当時、
が記されており、これにともなって各札所の御詠歌も整備しています。当時の三浦札所の様子を窺うことが出来る貴重な資料ですので、以下、原文(補註)と薬師札所十二院のご詠歌をご紹介します。
それ諸仏出世の本懐は、娑婆世界の一切衆生を清浄土に引接したまう摂取の仏誓なり。
然るところ三浦郡の中において観音三十三所、地蔵廿四所、七阿弥陀、八薬師、七不動、四毘沙門等の諸仏の札所、往古より、その名所ありといえども、ただ観音の巡拝のみ諸人は回詣せり。
予(=私)、思惟して云く、外の札所は人々、一向にその名所をも知らず。これによって今般、地蔵菩薩の巡拝をして、その序にて諸仏の札所へ悉(ことごと)く相い尋ね、今より以後、諸人信心の輩に、その名所を知らしめんと欲するなり。
ここにおいて不思議なるかな、天保十二(1841)丑年四月一日の夜、予、夢中に神武寺の薬師堂に参籠せしかば、深更(=深夜)に及び、忽然として尊扉が開き、瑠璃光如来出現したまい、「我に十二の大願あり汝の信仰によりて十二所の霊場を取り究めよ。」(とおっしゃった)
また左辺より不動尊、火焔の中に現じたまい、「般若十六神王の霊地と表してその名場を定めよ」(とおっしゃった)
右辺よりは「極楽浄界、六十万億恆河沙由旬の無量寿仏なり」という、丈余の紫磨金色の仏躰、出現したまい、「善い哉、善い哉、汝、謹んで諦聴せよ、仏に四十八の誓願あり。これ幸いに四十八所の霊場を建立し、治定して後代の諸の衆生、信心の族らに巡礼を遂げさせんや」と宣うや否や、即時に尊容は消するが如く失せたまう。
寔(まこと)にもって仏勅を蒙ることありがたし、ありがたし、と夢中に礼拝す。予、たちまち夢覚め大いに驚くこと限りなし。間もなく夜明け、思慮するに則ちこれは諸仏の霊夢にて少しも疑いを生ずることなかれ。
よって直ちに同月三日発足して、それより三浦郡中を七八箇日の間、残らず巡拝し、右、諸仏の札所を悉(ことごと)く聚(あつ)め記して、番附を撰整して、今より後世に至る迄、信心の輩、巡拝の便覧補助にもならんやというや。
※竜崎戒珠が増補した十二院とそのご詠歌を以下にご紹介します。
第一番 沼間神岳 医王山 神武寺 天台宗
東方薬師の恵みあふげただ浮世の中にすめる法人
二番 公郷宗元寺 東光山 曹源寺 禅宗
法の道 源清き御寺こそ恵みも深き るりの壷かな
三番 泊 野狐山 宗慶寺 同 (現在は良長院に安置)
いつ迄か ここに泊りて祈らなむ 舟に追手の風のよきまで
四番 大矢部 仏頂山 薬王寺 禅宗 (現在は満昌寺に安置)
武士のひくにはあらて大矢部の るりの光りをまとにかけなん
五番 鴨居 鴨居山 能満寺 同
朝日照る 汐みち渡る瑠璃の海 深き願ひもよくみつる寺
六番 飛井 医徳山 薬厳寺 浄土宗 (現在は傳福寺に安置)
かしこさに鳥も飛井の水をくめ 草も薬りとなる誓ひかな
七番 津久井 七宝山 東光寺 真言宗
東海を照す光の るりの台 津久井の水に契りむすばん
八番 上宮田石作 薬師堂 (現在はない)
御仏も神も宮田の御法をば ゆたかに守る萬代の秋
九番 三崎 城嶋山 神宮寺 禅宗 (現在は見桃寺に安置)
千早振る神の宮守三崎より法の御舟にいく代渡さん
十番 和田 仏照山 安楽寺 浄土宗 (現在の天養院)
和田つみのたもつも守らん此岸に安くたのまむ法の御寺は
十一番 長坂 仏心山 西蓮寺 浄土宗 (現在はない)
はるはると たとる浮世の長坂も西にあゆみをはこびこそすれ
十二番 下山 白砂山 萬福寺 同
おのづから染まる心の錦こそ かくれやはなし木々の下山